富安風生(本名謙次)
日本の俳人。本名は謙次。高浜虚子に師事。逓信省に勤めながら俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。愛知県出身。
富安風生は、いわゆる「ホトトギス」派は偉人である。彼が俳句をはじめたのは、大正7年34歳の折で、晩学の俳人といえる。逓信省の官吏として出世街道を走りつつ、他方、余裕をもって句作にいそしんだわけである。そこに風生俳句の特徴がある。いわば、俳句の愛し方の大衆的典型といえる。
富安風生略年譜
1885年(明治18年) 4月16日 愛知県八名郡金沢村(現在は宝飯郡一宮町大字丹波)に生まれる。本名、謙次。父・三郎、母・なか。男4人、女2人の末弟。長兄、祖父も俳人だった。
1898年(明治31年) 14歳 豊橋中学(現・県立時習館高校)に入学
1903年(明治39年) 19歳 第一高等学校第一部甲類合格。
1906年(明治39年) 22歳 東京帝国大学独逸法律科入学。
1910年(明治43年) 26歳 逓信省に採用。
1918年(大正7年) 34歳 6月、為替貯金局副事務官に任じられ福岡貯金支局長 学友、高崎烏城らの紹介で吉岡善寺洞を知り、俳句の道に入る。善寺洞主宰「天の川」同人となる。
1919年(大正8年) 35歳 5月、本庁に転勤。貯金局庶務課長。
11月、大富部敏子と結婚。原宿の寓居が新婚家庭となった。
1920年(大正9年) 36歳 この年より「ホトトギス」への投句始まる。初入選句〈鍛冶の火を浴びて四葩の静かかな〉。新聞俳壇に盛んに投句した。虚子国民俳壇、篠原温亭句会に参加。東大俳句連(秋桜子)との深い交遊が始まる。
1922年(大正11年) 38歳 東大俳句会(後の草樹会)が結成。これに参加。
1925年(大正14年) 41歳 親しく虚子の教えをうける機会が多く、句作も熱心に加えた。
1926年(大正15年) 42歳 大臣官房文書課長。池袋(艸魚洞)に転居。
1930年(昭和5年) 46歳 10月、「ホトトギス」課題句選者に推される。
1936年(昭和11年) 52歳 1月、逓信次官に任ぜられる。「若葉」百号記念俳句会開催。
1937年(昭和12年) 53歳 2月、第二句集「十三夜」出版。
5月、退官。27年の官界を退き池袋の旧居に戻る。
東北、京阪、四国旅行。
1940年(昭和15年) 56歳 12月、日本俳句作家協会が結成。虚子会長の下、常任知事となる。
1948年(昭和23年) 64歳 9月26日、「若葉」250号記念大会。
1949年(昭和24年) 65歳 11月20日、若葉同人誌友より胸像を贈られる。
1950年(昭和25年) 66歳 8月26日、富士吉田二泊旅行。初めて「吉田の火祭」を見る
1952年(昭和27年) 68歳 11月、参内。皇太子成年式加冠の儀・立太子宣誓の儀に列した。
1953年(昭和28年) 69歳 山梨日日新聞主催、山梨新十景俳句入賞式に招かれ甲府へ。式後飯田蛇笏山廬を訪ねる。
8月上旬~中旬、山中湖畔落葉松荘避暑。「若葉」に「艸魚洞日記」連載始める。
1957年(昭和32年) 73歳 8月16日、山中湖畔からまつ荘内句碑除幕式。
1958年(昭和33年) 74歳 山中湖畔撫岳荘の「若葉」全国鍛錬会に出席。
1960年(昭和35年) 76歳 山中湖畔撫岳荘句碑除幕式に参列。
1969年(昭和44年) 85歳 3月5日、自筆復刻版「富士百句」出版。
1970年(昭和45年) 86歳 9月5日~7日、山中湖畔大出山荘の「若葉」鍛錬会に出席。6日、ホテルマウント富士」庭前の句碑除幕。
11月9日、勲一等瑞宝章叙勲のため参内。
1971年(昭和46年) 87歳 5月3日、「若葉」500号記念富士吉田地区大会に出席。
10月29日、芸術院賞受賞祝賀会に出席。
1973年(昭和48年) 89歳 26日、富士吉田市平山裾の句碑除幕に出席。
1974年(昭和49年) 90歳 8月4日、山中湖畔諏訪神社境内句碑除幕式に参列。
1975年(昭和50年) 91歳 4月16日、富士吉田市下吉田深山に句碑成る。
1976年(昭和51年) 92歳 8月1日、山中湖報湖祭仕掛花火を見る。
10月13日、富士吉田市大明見柏木白雨邸内句碑成る。
1978年(昭和53年) 94歳 4月23日、山中湖村平野雲海山寿徳寺境内句碑除幕。
1979年(昭和54年) 95歳 2月22日13時6分、静かに永眠。上吉田西念寺に句碑除幕。
風生庵支援協議会 公式サイト https://www.lib-yamanakako.jp/~fusei/index.html よりお借りしました。